戸破地区は、富山県内でも平野部ですので、あまり積雪が多い方ではありませんが・・。
しかし今年は、例年より雪が多く降っています。
ちょうど、雪が降り始め融雪(雪を解かすために道路に水をまく装置)が始まったタイミングの写真を掲載します。
自宅の前は、融雪装置があり、あまり雪が多くありませんが、融雪装置のない道路では、”でこぼこ”の道路で車が左右に大きく揺れゆっくりと走行している状態です。
毎年、慣れているとはいえ、やっぱり大変です。
富山県射水市の戸破地区についての情報を発信しています
戸破地区の見どころの紹介
戸破地区は、富山県内でも平野部ですので、あまり積雪が多い方ではありませんが・・。
しかし今年は、例年より雪が多く降っています。
ちょうど、雪が降り始め融雪(雪を解かすために道路に水をまく装置)が始まったタイミングの写真を掲載します。
自宅の前は、融雪装置があり、あまり雪が多くありませんが、融雪装置のない道路では、”でこぼこ”の道路で車が左右に大きく揺れゆっくりと走行している状態です。
毎年、慣れているとはいえ、やっぱり大変です。
小杉は古くから北陸道の街道筋にあたり、旅人の往来がはげしく、宿場町と重要な位置を占めていました。馬か古来から通行手段の最たるもので、罵倒観音は旅人の守護仏として信仰を集め、心のよりどころとなっていました。
盤持には、石盤持と俵盤持の2種類があり、石盤持は夏の夜涼みがてら青年たちが盤持石という特定の担ぎやすい形をした自然石を力自慢に高くさし上げて力を競いまいた。
藤井右門は勤王の思想を説き、尊皇倒幕、王政復古を願い、大政奉還の実現のため諸国を巡り、運動に身を挺した勤王の志士でである。享保5年(1720)旧小杉町に生まれた。
右門は、ただの勤王の志士というだけでなく幕府の政治の道具に利用されてきた儒学に対し勤王思想の国学を説き、48才で極刑に散った世直しの先駆者であった。
大正6年(1917)百五十年執行。その後毎年命日の8月2日に右門廟前で右門祭が行われている。
旧北陸道を三ケから戸破へ向かって進むと、中町の中程。老田家の前で左へほぼ直角に曲折し、さらに久証寺前で鍵の手に右へ折れています。
この曲折は、江戸時代、小杉新町の町立てに際し、敵の攻めに備えるため、加賀藩があえて町並みを屈折させ、遠くを見通せない「遠見遮断」にしたものといわれています。
下条川を渡って、荒町通りのつきあたり、旧杉森商店前の道筋でも見られます。
金胎寺の本堂の天井は、周囲に草木画と菊華紋で飾られ、中央に墨絵の竜眼図が描かれています。
行基作の先手観音・不動尊・羅紗門天(現在は所在不明)の三体があります。
本堂の横には嘉永4年(1851)より秋葉三尺坊大権現を祭ったお堂が再建されており、修験道など山岳信仰・火難除けの神仏として、江戸時代より全国で広く祀られております。
大火に弱いこの地域からも敬われています。
兜山の地は、石坂大地の地続きとなって北端に突出していた。
明治32年小杉駅築造の土盛り、昭和9年国道8号線の土盛り、昭和10年三和繊維工場の建設の際にも丘地が切り崩され、孤立した台地の形状が兜に似ていたことや刀剣類や甲冑等の破片が出土したことから兜山といわれるようになった。
昭和15年町並みが一望できるこの地に樹木500本と花崗岩の忠霊塔が建立された。忠霊塔には日露戦争、太平洋戦争等の戦没者の霊が祀られている。
かつて相撲場があり、町民には眺望に富んだ郊外の散策地として親しまれていた。
射水市の天然記念物に指定されている樹齢役300年余(推定)のうらじろ樫は、旧小杉庁舎から約80m離れた中央図書館西側へ移植されました。
この樹は、もとは由緒ある小杉町の名家の庭で育成し、旧小杉小学校や町役場など、枢要の地を転々としながらも力強く根ざしつづけ、今回で6度目の移植となります。
永きにわたり町勢、そして市勢の動きを眺めてきた唯一の樹である”うらじろ樫”を今後も見守っていきたいのえす。
大正13年に建てられた荒町の旧小杉郵便局を「失くしたくない」「何とか残せないか」という地域住民の声と、かつてランドスケープ(街の再開発事業)携わっていた永森志希乃さんと相まって「LETTER」が誕生しました。
1階には永森さんの「風景と食設計ホー」のオフィスと、雑誌や絵本が並ぶ本居淳一さんの古書店「ひらすま書房」 2階には美術教室を開く樋口裕重子さんの「アトリエセーベー」が同居しており、街並みアートには子供向けワークショップの開催も予定しています。
「手紙のように人と人をつなげて、日常が豊かになる場所にしたい」という願いを込めて名付けられた「LETTER」の今後の活動が楽しみです。